五條 #2
五條は明治維新発祥の地と言われる。
幕末の1863年8月17日、世の中を変えようと集った若い尊王攘夷派の志士達が、幕府の五條代官所を襲撃。
しかし翌日京都で起こったクーデターにより一変して逆賊とみなされ、幕府軍の激しい追討を受け、ついには東吉野の鷲家口で壊滅させられてしまう。
これが「天誅組の変」であるが、尊王攘夷派による幕府に対する初めての武装蜂起だったと言われている。
新町通りを西へ向かって歩いていくとアーチ状の高架が見えてくる。
五條から紀伊山地を縦貫し熊野の新宮まで開通する予定だった「五新線」の遺構である。
昭和14年に着工されるが未完成のまま昭和57年に計画は中止。
国鉄の財政難にあって相当な予算が配分されたそうだが、結局開通の日の目を見ることなく廃線となった。
JR五条駅方面から徒歩約10分、新町通りに入るとまず目に留まるのが「餅商一ツ橋」の看板を掲げた古風な建物のお店。
ガラスケースにお餅のサンプルが陳列されており、営業中かと思いきや、既にご廃業とのこと。
原料にこだわり昔ながらの製法でお餅を作っていたことを後で知る。
ここ数年良いお店から消えていっているような気がする。
五條 #1
大阪府との県境に立つ金剛山の南麓に位置する奈良県五條市は、和歌山県橋本市と隣接しており、大台ケ原を源流とする吉野川の流域にある。
吉野川は五條を過ぎると紀ノ川と名称を変え、そのまま西へ和歌山県を横断し、紀伊水道へと至る。
五條という地名は、金剛山から吉野川へと注ぐ5つの谷川に由来するという説や、東へ向かう「伊勢街道」、 西へ向かう「紀州街道」、紀伊半島を南北に縦断する「西熊野街道」、奈良へ通じる「下街道」、大阪へ繋がる「河内街道」と、五街道が交差するところからという説がある。
いにしえから水陸両路の要諦として開けていた五條だが、今も残る五條の街が形づくられ始めたのは400年前、江戸幕府成立直後のこと。
徳川家康の命を受け五條入りした「松倉重政」が都市づくりに着手、「五條新町」を興し、商家を各地から誘致したのが始まりとされる。
松倉重政によって築かれた新町は、吉野川沿いの、紀州と伊勢を繋ぐ街道筋に、まっすぐ敷かれた1kmほどの道路に過ぎないが、今なお間口の揃った町家が軒を並べ、整備はされているものの観光地として喧伝されることなく、往時を偲ぶ落ち着いた素敵な佇まいを見せてくれている。
大和高田 #1
奈良県大和高田市は奈良盆地の南西部に位置し、中心には北から近鉄大阪線の「大和高田」駅、JR和歌山線/桜井線の「高田」駅、近鉄南大阪線の「高田市」駅と、ほぼ2kmの間隔に3つの駅が存在し、大阪市内から電車で約40分の圏内にある。
日本最古の官道と伝えられる横大路(竹内街道)の要所として、中世には濠(お堀)に囲まれた環濠集落、室町時代には當麻高田氏によって築かれた高田城の城下町、江戸時代には専立寺を中心に寺内町が形成され、大和の中心的な商業の町へと発展した。
江戸時代に「和州第一之売物」として名を馳せた綿業が盛んになり、明治には「大和紡績工場」が設立され、「大日本紡績高田工場」と名を変える頃には日本の繊維産業の中心となったが、後を受け継いだ「ユニチカ高田工場」は、自由貿易化の煽りを受け1977年に閉鎖される。
戦後紡績工場の繁栄に伴い周辺は機械や繊維加工などの関連産業が活性化、近代的な都市整備が進み、商店街や娯楽施設は賑わい、バブル期には大阪のベッドタウンとして人口が増加、古来より人々が往来する活気あふれる商工都市だった。
かつての賑わいが偲ばれる商店街が3つの駅を繋ぐように散在し、アーケードの隙間からは葛城連峰を伺うことができる。
時折小雨の降る中を歩いてみると、秋雨の雲から溢れる柔らかな光が似合う、落ち着いた風情ある街道沿いの中世都市という印象だ。